葵上 ボーカロイドTM オペラアオイ with 文楽人形

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人形遣いの月面着陸


2013年6月のボーカロイド大会での「メルトの舞」で初めてボーカロイドとセッションさせていただきました。
人形を遣うという事は、当たり前ですが気持ちを込めて遣います。
つまり魂を人形に入れて、皆さんに人形を血肉のかよった人間のようにご覧いただくのです。
あの時に、昔も今も感じる心は一緒なんだな!と思いました。
今回のボーカロイドオペラ・葵上は、文楽人形としての初めての試みです。
文楽人形遣いが月面着陸したようなもので、初めての一歩です。
ボーカロイドの声に乗り、文楽人形の美しさを最大限に写し出した映像の世界です。
是非!是非!ご覧ください!

文楽人形遣い・吉田幸助



『オペラ葵上』に寄せて


「彼岸」という言葉がある。“ひがん”と発音する。かのきし、向こう側、つまり“there”である。こちら側が「此岸」、“here”である。 彼岸と此岸の間には川が流れている。川の名は三途の川。この川には渡しの舟がある。これが弘誓(ぐぜい)の舟だ。 「死」とは、この弘誓の舟に乗って、此岸から彼岸へと渡ること、hereからthereへ。そう、これが私たち日本人の死生観である。

ちょっと向こうの岸に……「生」と「死」の距離は、川ひとつ隔てただけ。逆に言えば、「生」とはそれだけ儚いものなのだ。 が、ここで重要なのは「生」と「死」の間に三途の川があることだ。つまり「間」があるのだ。「生」でも「死」でもない時間。 ボーカロイドのキャラクターも、人形も、その時間を生きている。 そんな生と死の境目を生きる存在が歌い、演じ、舞う。それが『オペラ葵上』である。 「間」の芸能、ボーダーの芸術。儚き「生」を生きているからこそできる、流麗なエンターテイメントである。

この『オペラ葵上』を通じて、多少なりとも日本の心に思いを馳せていただければ、ボーカロイドと文楽が出会うきっかけを作った私にとってこれほど嬉しいことはない。

デジタルハリウッド大学教授 福岡俊弘



ちょっといびつな「愛」の物語


これは「愛」の物語です。
というと「また愛か」と思われるかもしれません。
そう、映画というのはいつも「愛」をテーマに描いているものですからね。
でも、この作品での「愛」はちょっといびつなカタチをしています。
普通の映画では人間同士の関係を描きます。
ところが、この作品ではボーカロイド、つまり「人間ではない声」と、人間の「歌手」とを巡る「愛」が描かれているのです。
「しかもその「愛」は怒濤のように波打つ、破壊的な「愛」なのです。
ね、ちょっと変でしょう?

そして、そんな「愛」のカタチを演じるのは、こちらも人間ではない「人形」たちです。
「人形」が人間のように振る舞う。そのことで、少しいびつな「愛」が際立ってきます。
「人形」の動きや表情の中に、いろいろな感情を読み取ることができます。
「喜び」「怒り」「驚き」そして「悲しみ」が伝わってくるはずです。
「わかる」というより「感じる」映画なのかもしれませんね。

ちょっと不思議なカタチの「愛」を描いたこの作品は30分の短編映画です。
少しの間、これまでに観たことのない世界を覗いてみて、楽しんで頂ければ幸いです。

監督・編集・背景ビジュアル: 加納 真



幻の歌姫を求めて


本作は、能「葵上」を現代に翻案した短編オペラです。
能は、700年程前より続く日本の伝統的な歌舞劇で、文楽や歌舞伎などその後の日本の演劇の礎となった演劇でもあります。
能の演目の多くは、神、鬼、天女、幽霊といった登場人物をその中心に据えています。能を大成した観阿弥、世阿弥の父子は、これら人智を超えた不可思議な存在を舞台上に表出するために、それまでバラバラに伝承されていた雑多な芸能を1つに束ねました。能を観た幾世代もの日本人たちは、そこに何かを感じ、この演劇を現代に伝えました。

人智を超えた存在に対する畏敬の念。その感覚を現代に表出できないか?本作の企図はそこにあります。本作も能に倣い、古今東西のさまざまな要素を寄せ集めています。たとえば、古典の題材とテクノミュージック、劇場の空間とコンピューター映像、象徴的な装置とスマートフォン、そして、文楽人形とボーカロイド。

それらは、太古から変わらぬ人の心と、変化し続ける現代のテクノロジーの対比でもあります。その古きと新しきの狭間にこそ、現代の不可思議としての「幻の歌姫」が立ち現れるのではないかと……

台本・音楽・演出・舞台美術・音響効果:田廻弘志(たまわりひろし)